ティー・パーティ Tea Party / 2003.8.30 思えば、朝から何がが違う、という感じはあった。 例えばそれは、ここしばらくタイマーのon/offを押すだけだったはずの目覚まし時計が、いつもより五分早く鳴りだしたり、洗面所で顔を洗った後で鏡を見ると、昨日より髪が伸びている気がしたり、銀杏並木に転がっているその実が、まるでそこに絨毯を引いたかのように通り道を作っていたり、ただその程度のことだったのだけれど。 掃除用具をしまい、鞄を取って校舎を出ると、朝は清々しいまでに晴れ渡っていた空が、幾分かくすんでいるように見えた。曇っているわけでもないのに、太陽の光がまるで見えないフィルターにかかっているのではないかと思うくらい薄く儚い。もしかしたら私の目のほうが疲れているのかも――祐巳はそんなことを考えた後、首を振った。 今日の天気がどうかしたところで、別段気にするほどのことではない。そんなことよりも、今は早く薔薇の館へ向かわなければならない。クラスメイトに欠席者がいたので、今日の掃除は思いのほか長引いてしまったのだ。これ以上遅くなってお姉さまがたに迷惑をかけるのは申し訳ないし、それに天気がどう転んだところで、折り畳み傘は鞄の中に常時しっかりと入っている。 薔薇の館の前に着くと、祐巳はいま一度タイが曲がっていないかどうかを確認し、二度ノックをして扉を開けた。 一階の部屋には誰もいないようだった。時刻を確認しようとして、なぜかいつも付けているはずの腕時計がないことに気づいた。しまったどこかに忘れてきたか――しかしそんなことを考えている場合ではないことを思い出し、慌てて階段へと向かい、ちょうど半分ほど登ったところで、ふと立ち止まる。 ――また、あの感じがした。 なにかが違うと、何が原因で感じたのか、祐巳にはさっぱりわからなかった。ただ自分の中で体温にも近いなにかがゆっくりと冷めていくのを感じ取り、残りの階段を一歩一歩踏みしめるように登った。 相変わらずビスケットのような扉の前で、深呼吸をひとつ。入ったらまず言うべき言葉を胸の内で三度ほど繰り返し、二度ノックをし、ノブに手をかける。 開かない。 ガチャガチャ、ガチャガチャとそれは音をたてるだけで、押すにも引くにも反応がない。 「あ、あの、祐巳です。お姉さま?」 ノブから手を離し、祐巳は中に向かって呼びかけた。鍵をかけられているという事実が、頭の中で悪いほうへ悪いほうへと解釈され、胸の奥底から湧き上がってくる不安がみるみるうちに募り積もっていく。 『祐巳?』 ほどなくして声が返ってきた。祐巳にとっては一日たりとも忘れたことのない、最愛なるスール・小笠原祥子さまの声。 「はい。あの、遅くなってしまって申し訳ありません。今後このようなことはないよう気をつけますから、どうか扉を開けてください」 『入ってきなさい』 言われて、再びノブを捻ってみる。開かない。 『どうしたの。早くいらっしゃい』 「あの、その、鍵が……」 『なにを言っているの。鍵なら、あなたのポケットに入っているでしょう?』 ポケット? なぜ私のポケットに、鍵が入っているんだろう――祐巳は不思議に思いながらも、スカートのポケットを探った。かつん、と堅いものが指先に触れる。取りだすと、それは見たこともない懐中時計だった。 これが、鍵? 見たところごく普通の懐中時計であって、それ以外のナニモノでもなさそうだ。かといって他にポケットの中に入っているものといえば祐巳のハンカチーフくらいなもので、ひと目で鍵だと判別できるようなものはありゃしない。いったいどういうこと――カチリ、と音がした。 見ると、懐中時計の針がちょうど集合時間を指したところだった。なんだろう。その音で、決定的ななにかがガラリと入れ替わったような感覚が―― 「――?」 もう一度、ノブを捻ってみる。回る。 ふと考える。そもそも、この扉に鍵なんてついていただろうか? 「来たわね。遅くなった理由はあるのかしら」 「はい。その、掃除が長引いてしまって」 「そう。それなら仕方がないわね」 部屋に入ると、祥子さまはソファーに深く腰掛け、背筋を相変わらずしっかりと伸ばし、そして数匹のウサギに囲まれていた。ウサギに囲まれる祥子さまはまるで鳩と戯れる聖女のようで、美しかった。 「早くお座りなさいな」 はい、と返事したのはよかったものの、どこに座れば良いのかわからない。部屋の内装は、祐巳が記憶しているものとはガラリと変わってしまっていた。ソファーなんて高価なもの、いつの間に持ちこんだのだろうか。 脚のあたりにこそばゆい感触がして、祐巳は視線を落とした。一匹のウサギが、祐巳の視線をまっすぐに捉えていた。鼻をしきりにひくつかせ、そうでもしないと気持ち悪いのではないかと思うくらい、せわしなく髭を動かしていた。 その目がまるでこんにちは、と言っているようで、祐巳はこんにちは、と返事をした。 「祐巳、挨拶はいつでもごきげんよう、でしょう?」 「あ、はい。ごきげんよう」 あざとく聞きつけた祥子さまに注意され、祐巳は言い直す。ウサギはくるりと身を翻すと走り出し、祥子さまの正面にあたるソファーの前で足を止めた。ちょうど人ひとり分のスペースが空いていることから察するに、ここに座れ、ということらしい。 「ありがとう」 お礼を言い、腰掛ける。それを見届けたウサギはよじよじとソファーの側面をよじのぼり、祐巳の隣にちょこんと座った。 改めて周囲を眺めてみる。右にも左にもウサギ。正面には祥子さま。椅子とテーブルと簡単な流し台があるだけだったはずの部屋は、洋館の客間の一室のように様変わりしてしまっている。少し落ち着かない。 「それでは、ティー・パーティを始めましょうか」 「ティー・パーティ?」 祐巳は首をかしげた。 「お姉さま、今日は確か、来週から始まる校内美化週間に向けての会議じゃありませんでしたか?」 「なにを言っているの。今日みたいに晴れた日は、ティー・パーティをするに決まっているじゃない」 そうだったのか。晴れた日にはティー・パーティをするものなのか。窓の外の空を見上げ、祐巳は胸の内で納得した。太陽は相変わらずフィルター掛かって濁った色に光っている。 くいくいっ、くいくいっ。 スカートを引っ張られているのに気づき、振り返る。見ると、耳の先が膝下くらいの高さのウサギが、紅茶の入ったティーカップを差し出して、赤い瞳でわたしの目を見つめていた。二足歩行をしている。 「これ、私に?」 返事がないのでお礼を言ってカップを受け取ると、ウサギは今度は祥子さまのところへ紅茶を運び、同じように紅茶の入ったティーカップを手渡していた。 「ありがとう、志摩子」 祥子さまがそう言っているのが聞こえて、初めて気がついた。そうか、あのウサギは志摩子さんだったのか。そういえば目元とか、歩き方なんかがどことなく似ている気がする。ということは、先ほどソファーに案内してくれた、隣に座っているこのウサギは由乃さんだろうか。 「冷める前にいただきましょう。そうね、お茶菓子が必要かしら」 祐巳、と祥子さまに呼ばれて、祐巳は口をつけていたティーカップから急いで顔を上げた。 「ビスケットを持ってきてくれる?」 ビスケット。この言葉でピンときた。 はい、と返事をし、立ち上がって扉に歩み寄る。表面を撫でるとざらざらしていた。出っ張りを引っ張るとそれは思いのほかあっけなくはがれたので、祐巳は欠片のひとつを口に含んだ。甘い砂糖の風味。お菓子の家みたい。 志摩子さんが持ってきてくれたお皿に十分な分だけのビスケットを取って並べ、ソファーへと戻る。ご苦労さま、と祥子さまに言われたのでにっこりと笑って返事をした。 お皿をテーブルの上に置くと、待ってましたとばかりに祥子さまの隣に座っていたウサギが食らいつく。祥子さまは呆れた風に言う。 「白薔薇さま、はしたないですわよ」 白薔薇さまウサギは祥子さまの言葉を気にした様子もなく、ニンジンでも食べるようにビスケットを口に詰めこんでいく。ウサギというよりリスのようだ。時折顔を上げてこちらを見るその目が、祐巳ちゃんだってつまみ食いしてたのにねぇ、と言っているようで、苦笑と愛想笑いが交じったような反応を返してしまう。ねぇ、と言われても。 ビスケットをつまみ、紅茶を一口飲んで、祐巳はウサギたちを眺めた。 隣に可愛らしく座っているのが由乃さんで、それに横からしつこくラブアタックしているのが令さま。祥子さまがその振る舞いにずっと小言を言っているのが白薔薇さまで、それを微笑ましそうに見つめているのが赤薔薇さま。赤薔薇さまと並んで座っている、落ち着き払っているようで実はこの騒がしい状況を誰よりも楽しんでいるようにも見えるのが黄薔薇さま。そして紅茶を持って忙しく駆け回っているのが、志摩子さん。 そうか、こんな感じだったのか――祐巳は思う。 素敵なお姉さまがたに囲まれ、毎日が刺激的な日々ばかり過ごしていると、こんな身近なものを見る余裕さえなくなるらしい。今みたいにゆっくりと紅茶を飲んで、ビスケットを食べて、ふと顔を上げる、ただそうするだけでよかったんだ。 そう思うと、祐巳はだんだん、これまで薔薇の館で過ごしてきた時間がとても心惜しく、そして懐かしく感じられるようになった。あの温かく、どこまでも心地の良い空間で、もう一度みんなと向かい合いたい。そうだ、ティー・パーティを開こう。みんなで淹れた紅茶をそれぞれ交換して、ビスケットの扉ではないけれど誰かが焼いてきたクッキーなんかを食べて、みんなで笑い合おう。 紅茶を一口飲む。アプリコットの甘い香りにくらっとくる。透き通ったチョコレート色の水面で、祐巳の顔がゆらゆらと揺れている。 「あら」 祥子さまが声を上げた。 「祐巳。あなた、素敵な時計を持っているのね。ちょっと見せてくれないかしら」 断る理由もなかったので、祐巳はどうぞ、と言って時計を祥子さまに手渡した。 これをどこで?、なんて聞かれても自分ですらわかっていないので、どうしようと祐巳は考える。しかし祥子さまの興味は時計そのものにはいかず、その一部分に引かれたようだった。 「ふぅん。文字盤の針が、光の加減で変色するようになっているのね」 「変色?」 「ええ、ほら」 返された時計をまじまじと見る。針は、濃い橙色をしていた。そういえば、さっき見たときはこんな色だっただろうか? よく見ると、針の色はだんだんと明るくなってきているようだった。それに反応するように、今度はガラスの部分の色が変わっていく。透明から黄色へ。黄色から黄土色へ。黄土色からチョコレート色へ。どの色も透き通っていて、見ているうちに引きこまれそうに―― カチリ。 気がつくと、祐巳は薔薇の館の階段を登った、ビスケットのような扉の前に立っていた。 奥の窓からはまだ高い日差しが差しこんでいて、今が放課後であることを証明している。いま何時だろう――そう思い、時計を探した。見慣れた腕時計はしっかりとその腕に巻きつけられており、針は会議が始まる時間の五分前を示していた。 扉越しに、大きな笑い声が聞こえてくる。続いて祥子さまの怒声が聞こえてきたということは、最初の笑い声は白薔薇さまのものだろう。この様子では、もう全員集まっているに違いない。 祐巳はノブに手をやったところで一度動きを止め、反対の手で扉をそっと撫でた。木製の扉は、ニスが塗られてつるつるしていた。 ノブを回し、ゆっくりと扉を開ける。見慣れた木製のテーブルを囲むようにして繰り広げられていた喧騒は一瞬で止み、中にいた全員の視線が祐巳に向けられる。 怒り顔の祥子さまとしたり顔の白薔薇さまがまず視界に飛びこんできて、祐巳は笑う。笑っては失礼だ、とは思いつつも、どうせなのでそのままの笑顔で言う。 「みなさんごきげんよう。今日はとても良い天気ですね」 <END> ■ トップページへ ■
ティー・パーティ Tea Party / 2003.8.30